離婚のあとは同棲ブルー、放蕩娘に訪れた人生の転機
子どもが2歳になる前に、私は生活のほとんどを南馬込のマンションから、実家の鎌倉市七里ガ浜に移した。目黒にある父の会社で夫は働いていたけれど、仕事や上司に対する不平不満をネチネチ言われたくないのが大きな要因だった。あとは「マタニティブルーを解消したのは育児書よりも祖母の豊富な経験」に書いたように、週末になると義父母の家に入り浸るワンパターンさに嫌気がさしていたのである。ビルを所有し、銀座にも上野にも通じる中央通りの一等地であったけれど、コンクリ―トの建物が遮る四角い空は好きじゃない。
どうやら私は海が近くにないと息が詰まる性分。幹線道路の排気ガスが立ち込める南馬込は「住めば都」にはならず、江ノ電がガタゴト走る海岸沿いの景色が恋しくて仕方なかったのである。結婚前の状態で保存してある部屋で眠ると、高校時代の私に戻れた。
実家を拠点にした理由はもう一つ。義姉に連れて行ってもらった六本木のディスコが楽しすぎて、毎晩でも行きたいほどにハマっていたからだ。息子を祖母に託して、ファッション誌「JJ」で流行していたサーファーズルックで夜の街に出る。おしゃれな女子の特権として、ネペンタ、ギゼ、ナバーナといったディスコには顔パスでVIP席に通してもらえたので、遊ぶお金は大してかからず、車で通うガソリン代も実家近くのスタンドでサインをすれば済んだ。とんだ放蕩娘である。
気持ちがすさんでいた私は、いったいどんな生活をしていたのか、離婚に至った経緯が定かではない。夫とは話すことなく、離婚届の提出など全ての手続きが親任せだった。独身に戻ったのを知ったとき、父に言われたのは「これで懲りただろう。もう結婚なんかしようと思わず、適当に遊んでおけよ」だった。8人も愛人がいる父にとっては、家を捨てて出て行った母の後釜に入れた継母の攻撃が最大のストレス。女同士が足を引っ張り合って大奥みたいだ。「うえさま」は自分のDNAを引き継いだ一人娘には轍を踏ませないよう、適切なアドバイスをしたと思っていたのだろう。
ところが父のDNAを上回るほど、私は情熱的な恋に渇望していた。ディスコで知り合った男性と同棲したくて、息子と一緒に実家から目黒区自由が丘へ引越してきたのである。とは言えシンママには生活力がなく、子どもをひっくるめて全面的に頼りまくった。彼が借りていた1DKのアパートでは息が詰まり、近くの大きな賃貸マンションに引越し。飲食店で働いている彼が帰ってくる夜中まで、おもちゃをいっぱいに広げて子どもと遊んでいた。「お客からチップを貰ったんだ」と差し出してくれる1万円札で、自由が丘の衣料品店や雑貨屋で散財しては、放蕩ぶりが助長していったと思う。
そんな自由が丘の時代に、私がたった一つ建設的なことをしたのは、手に職をつける勉強をしたことだ。作詞家・作曲家を育てるスクールに入り、作詞家を目指して週一で青山まで通った。その日は七里ガ浜の祖母に息子を預け、スクールの後は六本木のディスコに行くという好き勝手な生活だ。初級、中級、上級とグレードアップするには、作品を提出して合格すればOK。私は小学生のときに作文コンクールで賞を取った経験もあり、ちょろっと書けば認められると傲慢な気持ちでいた。
上級に昇格するにあたり、売れっ子の作詞家たちとの面談が待っている。誰の下に付くかを希望して面談に臨むのだけれど、「僕のクラスに来なさい」と私を引っ張りあげてくれたのは、子どもの歌では右に出る者がいない有名な先生だった。「君はすさんだ眼をしてるね。でも詞を書く心はピュアだ」と、半ば強引に勧誘してくれたのである。
上級クラスに入って宿題を与えられると、昔は優等生だった自分が頭をもたげる。他の生徒には負けたくない気持ち、そして高校3年でヤマハのポプコン作詞集に採用してもらったときの喜びが復活。先生に褒められる作品を量産しているうちに、わずか3カ月で当時新宿にあったTOKYO FMの台本を書く仕事を与えられた。
これまで依存心ばかりの私が成長できるかもしれないと思ったとき、生活にも転機が訪れる。同棲していた彼が何日も家に帰ってこない。行きそうな場所を探し歩いて見つけたのは、以前住んでいた部屋をまた借りて、連れ込んだ女性とベッドにいる姿だった。その日の東京は大雪で、呆然とした私は何度も転びながら家に戻り、ただただ泣き続けた。涙が枯れたときに、同棲は終わりなのだと悟って、引越しの決断をしたのである。
勘当状態にあった私は、父に頭を下げに行き、住まいを用意してもらうことになった。ラジオ台本を書く仕事を得たことを話し、それだけではまだ食べられないので、金銭的援助を受けながら子育てすることを許してもらったのである。自由が丘から移った先は、同じ目黒区内にある碑文谷のマンション。父の愛人が住んでいた2DKで、彼女は自分の家を建てて引越したため、ちょうど空室になっていた。そのうち娘はSOSを求めてくると分かっていた父が、家具をそのまま残して準備してくれていた部屋だった。
同棲していた彼と一緒に使ったものは見たくないので、運び込んだ荷物は衣類ぐらい。息子は近くの保育園に預けて、昼間はラジオ局、夜はひたすら原稿書きの生活がスタートした。引越しブルーに浸る暇もないほど、自分の人生を立て直すことで精いっぱいだったと思う。
運が良かったのか徐々に担当番組が増え、他のラジオ局、テレビ局にも通うようになった。作詞やステージ構成、脚本書きの仕事もするようになった。当時は鳩居堂の原稿用紙にサインペンで手書きしていた台本は、ワープロになり、パソコンになったが、徹夜して書きまくった拙い文字の原稿は記念に何部か保存してある。今でも中指に残っているペンだこは、七転び八起きした20代の勲章かもしれない。
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