衣類の引越しと断捨離が失敗した理由

急ぎ過ぎた結婚は悔いを残す。3月に大学を卒業した私は5月に挙式。新居となる南馬込のマンションが完成するのは半年後なので、父が平日の宿泊に使っていた目黒のマンションを間借りすることになった。2DKの一部屋は私たち夫婦、もう一部屋は父が使うという奇妙な新婚生活の始まりである。

 

鎌倉市七里ガ浜にある実家に比べたら、マンションの部屋は都会サイズでとにかく狭い。キッチン道具や食器などは既に置いてあるものを使い、自分たちに必要な最小限のものを持ち込むことにした。私が最も悩んだのは衣類である。

 

高校生時代からファッション雑誌を読みふけり、お小遣いやバイト代は原宿で服を買うことに費やしていた私は、実家の大きなクローゼットにさえ収まらないほどの衣装持ち。それがマンションの片隅に置いた洋服ダンスに収まるわけがなく、夫の衣類だって入れなくちゃならない。そこで取った選択はファッションスタイルの統一だった。

 

 

時はバブル期前の1970年代後半。ファッションの系統はトラッドスタイルと、ヨーロッパのモード系を追うコンチネンタルスタイル(通称コンチ)に二分されていた。an-anが大好きだった私はまとまりのないコンチ派で、着回しのきかない派手なデザインの服を沢山持っていた。何十着もある中からどれを選んで持ってくるか、考えるだけでも途方に暮れてしまい、引越しブルーに拍車がかかったのである。そしてついに思い切った行動に出た。結婚するのだから不経済な趣味は経ち切ろうと、コンチをやめてトラッドに移行することにしたのだ。

 

参考にしたファッション誌はJJ。ハマトラから端を発したニュートラが流行していた時期で、大学時代にはそれらしきファッションをした学友が沢山いた。レオナールの花柄ブラウスにグッチのベルト、カルチェの指輪をした先輩を見て、当時コンチ派だった私には縁がない服装だと思っていたが、これから衣類を減らしていくことを考えると、実にミニマムで合理的なファッションなのである。穴があくほどJJの紙面を研究し、お小遣いでも買えそうなブランドに目星をつけ、お買い物に行く場所は原宿から自由が丘に変わった。当時の自由が丘はトラッドファッションを置く店舗が多く、ニュートラスタイルの女子たちが足しげく通っていたのだ。

 

 

かくして目黒のマンションの洋服ダンスには、小花柄のお嬢様風ブラウスやVネックカーディガン、ウエストにチェーンの飾りがついたボックススカートなどが収まり、コーディネートの時間はコンチの比ではなく短縮された。色使いさえ間違えなければ、どのアイテムを合わせてもマッチするので、鏡の前で取っかえ引っかえ悩む必要がなくたったのである。

 

引き出しに収まった定番の服。「これが奥様になるってことなんだわ」と、家計のやりくりが上達した気がしたが、実家のクローゼットにはコンチの流行ファッションがごちゃごちゃと残っているわけで、新しい住まいに新しい服が増えただけなのに気付かなかった。

 

 

しかしニュートラ志向が続いたのは目黒にいた半年間だけ。南馬込の新居に引越したら、JJの流行に乗ってサーファーズファッションが日常着となった。義姉が六本木のディスコに連れて行ってくれたことから、周りの遊び人たちを見て、垢抜けない自分に気付いたのである。それからたびたび、七里ガ浜の実家に帰ってはビーチで日焼け。ファラフォーセット・メジャースのヘアスタイル、ファーラーのパンツ、サンローランのウェッジソールが定番となった。

 

洋服ダンスも押し入れも、再び衣類であふれる生活が戻ってきて分かったこと。私にとってのファッション好きは「三つ子の魂百まで」なので、衣類の断捨離計画はことごとく失敗するということだ。無理に捨てるとまた買いたくなるのが習性。実家でもどこでも収納する場所があるなら、そのまま取っておくのがいちばん経済的だと今は思っている。