一戸建て購入のきっかけはお嬢様学校の受験

江ノ電「湘南海岸公園駅」近くの2DKに暮らしたのは、小学校1年後半から中学校3年までの9年間。日産の営業だった父はトップセールスマンとなって顧客の数を増やし、東京都大田区で独立して、事務を手伝う母とともに小さな自動車販売修理会社を持った。そして私は中学受験をして、公立の小学校から私立のお嬢様学校へ進んだ。

 

当時は日本でいちばん学費が高かった白百合学園に娘を入れるのは、我が家の経済状況では厳しかったはず。なのに両親は私に家庭教師をつけたり、受験に有利だからとカトリック教会の日曜学校に通わせたりと、必死に応援したのである。そこにはおそらく、祖父の事業の失敗で愛媛県を追われた父が、立身出世して金持ちになり、故郷を見返してやるという意地があったのだろう。

 

 

受験当日。上がり症の私は試験の解答用紙に何を書きこんだかも定かではなく、母は大慌てで他の受験先を探したが、奇跡が起きたのか無事に合格。片瀬の借家から徒歩10分ほどにある湘南白百合学園中学校の生徒になった。しかし同級生たちは一流企業の娘や資産家の社長令嬢ばかり。『花より男子』で英徳学園に入学した牧野つくしの状況だ。それでも憧れのセーラー服で美しい校舎に通えることが誇りで、「ごきげんよう」やら「おそれいりました」の白百合言葉を必死で覚えた。

 

しかし問題が起きる。英語の授業で「My Room」を絵と文章で書いてきなさいという宿題が出たときは、娘よりも両親のほうが身につまされたらしい。なぜなら私には自分の部屋がなく、2階の6畳間で母方の祖母と一緒に寝ており、中学校入学のお祝いにやっと勉強机を買ってもらえた段階なのだ。それでも部屋の隅に自分の王国を持てたことが嬉しくて、私は机の周りを精いっぱい飾り立て、そのワンコーナーを写生して行った。みんなに絵を見せながら英語で説明したあとに、先生からお褒めの言葉を貰ったときには、天にも昇る気持ちだったと思う。

 

 

なぜだか家の狭さにコンプレックスを持ったことはなく、家庭科の宿題だった編み物が間に合わなかったときも、同級生たちを家に連れてきたことがある。最初は学校近くの公園で編んでいたのが、日が暮れてきたので、そこから一番近い我が家に移動したのである。真ん中が壁で仕切られて2所帯が住むタウンハウスだったけれど、お嬢様たちは一軒家に住んでいると思ったのか、誰も狭さに言及することはなかった。

 

ただし親たちは例外だ。借家住まいは潮時だと思い、ローンを組んで自分の家を建てようと決めたのである。購入を決めた土地は鎌倉市七里ガ浜2丁目。江ノ電「鎌倉高校前駅」の右手にある、相鉄が開発したシーサイド分譲地だ。当時はほとんど家は建っておらず、急な坂道を上って10分ほどの高台にある50坪の土地は、眼下に江の島を見下ろす絶景のポイントだった。

 

 

父の収入では分不相応な一軒家を建てるにあたり、頭金が足りない。会社のお得意様である工務店の社長に何度も頭を下げてお金を貸してもらい、それだけでは足りずに、大阪で不動産屋をしている祖父からも資金を借りた。その時の条件は祖父と、愛媛県西条市で和服を仕立てながら暮らしている祖母とを呼び寄せて、家族三代で暮らすこと。父はまだ、自分が愛媛の銀行を追われる原因となった祖父への恨みは消えていなかったが、一人娘にお嬢様学校で恥ずかしい思いをさせたくない気持ちのほうが強かったのだろう。

 

そして家が建つまでの期間、祖父母が2DKの借家に引越してくることになり、私のお守り役だった母方の祖母は親戚の家に引き取られることとなった。横浜市六角橋の幼稚園に通っていた頃から、ずっと可愛がってくれた恩人なのに「ありがとう」さえ言えず、彼女がいつ去って行ったのかも覚えていない。

 

大人になって何より後悔しているのは、中学生で反抗期の真っただ中にいた私が、「ババア」だの「汚い」だの酷い言葉をいっぱい浴びせたこと。「そんな言葉はお嬢様が使っちゃいけないよ」とたしなめるだけで、寂しがりな私をいつも陽気に励ましてくれた祖母に申し訳ないと思うのである。大学生のときに亡くなり、顔さえまともに思いだせないけれど、料理下手で焼け焦げた卵焼きの味が今となっては懐かしくてたまらない。