絆(きずな)|加山雄三さんがNTTタウンページCMキャラクターだった時代

引越しのときに捨てて後悔しているのは、昔のレコードだ。プレイヤーも捨てたのだから聴けないのだけれど、中古レコードが高く売買される今、お宝が相当あったはず。取り返しのつかないものほどブルーな気分になる。

 

それでも記念に取っておいたレコードは数枚ある。いちばん思い出が深いのは、加山雄三さんの1986年リリースのアルバム「はるかな未来へ」だ。1976年に「海その愛」で復活した加山さんがすっかり茶の間でお馴染みの顔となり、「NTTタウンページ」の初代CMキャラクターに起用されたとき作ったアルバムである。鎌倉の実家の棚にずっと立てておいたので、レコードジャケットの縁が茶色く焼けている。

 

 

A面の第1曲目にあるのが、CMソングとなった「絆」(きずな)。作詞:織田ゆり子、作曲:弾厚作、編曲:前田憲男で、弾厚作は加山さんの作曲家ネーム。編曲の前田憲男さんは日本を代表するアレンジャーで、昨年の11月にご逝去された。お二人と名を連ねるのが恥ずかしい私は、レコードの作詞を担当したのはこれが初めて。それまで詞を書くのは、森山良子さんなどがコンサートで歌う洋曲に日本語詞をつける仕事(訳詞)がほとんどだった。

 

加山さんのプロデューサーから「1曲だけ買いてみない?」と譜面を渡され、メロディーに音符をはめこみ、前田さんがダイナミックにアレンジした。アルバムのラストに入る予定だったのが、急きょNTTのCMソングに採用されたことで、A面のトップになりシングルとしても発売されたのである。

 

 

当時の私はラジオやテレビの放送作家、コンサートの構成作家をしており、家で台本を書くとき以外は、放送局や音楽の練習スタジオに詰める毎日だった。加山さんのコンサートには構成として加わって、演奏する曲目の選択、舞台の進行やトーク、セリフ入りのオリジナル曲(10分ほどの1人ミュージカル)などを担当していた。ステージに本物のヨットを置きたいと言って演出家を困らせたこともある(そのときは船体を縦半分に切って舞台に入れるという荒業を使った)。

 

中でも私が迷惑をかけたのは音楽監督だった前田憲男さん。加山さんの名曲とコード進行が似ているスタンダードジャズを同時に演奏したいと注文を出したときには「そんなのは理論的に無理だ」と怒られたが、数日後には無茶なお願いを全てクリアした天才的な譜面を上げてくれた。加山さん以外にも数々のコンサートで前田さんとタッグを組むことが多く、「君はもっと音楽の勉強しなさい」と頭をこづかれたものである。

 

そして加山さんのコンサート構成を毎年手掛けているうちに、いつだったか演出らしきことも担当した全国ツアーがあった。引き受ける条件としてお願いしたのは、四国でもコンサートをやって欲しいということ。8月に愛媛県松山市民会館での公演が決まり、スタッフとして参加した私は、公演の終わった翌日、一人で生まれ故郷を見にいくために伊予鉄の中距離バスに乗った。それがこのブログの最初の記事「引越しブルーの原点 生まれた場所へのひとり旅」である。

 

狭い路地の住宅街に、垣根と門柱だけが残っていた生家を見つけて呆然と立ち尽くした後は、予讃線の伊予小松駅から隣りの西条駅へ。子どものころ一緒に遊んだ従妹の家に泊めてもらった。「加山雄三さんの仕事をしているなんて、出世したもんだねぇ」と叔母におだてられ、瀬戸内で獲れた山盛りのシャコを食べたのが懐かしい思い出だ。

 

そうして続けていた構成作家の仕事は、40歳で急性腎炎になって倒れたときに辞めてしまったけれど、レコードを含め記念になるものは少しだけ取ってある。下のスタッフジャンパーは、加山さんがマリンウェアのブランドSINACOVA(シナコバ)で特注したもの。毎年のようにスタッフジャンパーを作っていた時期があったので、この他にも夏用・冬用を数着持っていたが、引越しのときに捨ててしまった。今ならお宝になったのにと残念である。

 

 

このジャンパーを着ていた1988年は携帯電話もインターネットもなかった時代。鳩居堂の原稿用紙に台本を手書きし、舞台監督にFAXで送信しては、電話で1時間かけて細かい説明をしたものだ。鎌倉の実家から麻布十番のつづきスタジオに車を運転して通い、前田さんから渡されたスコアの山に歌詞を書き込んで、トーク台本を読み上げるアーティストに細々と注文を出した。

 

自宅での台本書きが間に合わないときは、車が信号待ちをしている間に原稿の続きを書いて、途中で見つけた電話局に飛び込んでFAX送信をしたこともある。今ならWORD原稿をメール添付して一発で済むのが、なんてローテクなことをしていた時代だったんだろう。あれから30年が過ぎて、鎌倉の実家から引越しのとき持ってきた懐かしい品々をたまに眺めては、古き良き時代に想いを馳せる。

 

コンサートのプログラム開くと、タウンページの分厚い冊子を持った加山さんの写真。当時は一般人の氏名と住所が載った電話帳も当たり前で、各家庭に一冊ずつ配布されたものだ。ホームページもGoogleもなかったのだから当然だけれど、個人情報の取り扱いが厳しい今となっては、30年前が異次元の世界のように思える。

 

 

加山さんが作曲し、前田憲男さんが書いたメロディー譜に、1音符ごと歌詞をつける作業から生まれたのが「絆」。試練を乗り越えてきた加山さんの夫婦愛をモチーフに、住み慣れた家に暮らす幸せを詞にした。クリスマスの頃にはコンサ―スタッフ全員を成城のご自宅に呼んで、じゃんけん大会つきの大忘年会。若大将の気概そのままで豪快に皆をもてなす夫の陰で、かいがいしく采配をふるう奥様との二人三脚が微笑ましかった。

 

15回以上の引越しブルーを経験し、バツ2でシングルの私には程遠い環境。でも2コーラス目の「あたたかいこの地球(ほし)に 君がいて僕がいる 空という屋根の下 ひとつの家族」は現在に通じている。とうに別れてしまった夫や彼氏、あちらの世界に行ってしまった恩師や友人、家族をひっくるめ、みんなが一つの家族なんだと思える年齢になった。NHKで子どもの歌を書くようになり、「おかあさんといっしょ」で流れる「あしたはだれに会えるかな」を作詞したのも、ルーツはこの「絆」にある。

 

「絆」(きずな)

せわしい都会にも 渡り鳥がくる頃は
誰もが足を止め 笑顔を向ける
久しく離れてた 友達に会うように
懐かしい喜びに 心をとめる

時間は過ぎゆくもの
そして季節はめぐるもの
幾度も冬を越えて 育っていく愛

住み慣れたこの家に 君がいて僕がいる
穏やかなしあわせが 何より嬉しい

今までどれだけの さよならに会っただろう
これからどれだけの 愛に会うだろう
やがては憎しみも 枯葉が朽ちるように
心の土になり 消える日がくる

時間は過ぎゆくもの
そして季節はめぐるもの
忘れて許しあえる 絆が芽生える

あたたかいこの地球(ほし)に 君がいて僕がいる
空という屋根の下 ひとつの家族

©Copyright 織田ゆり子

 

詞の著作権を持つ本人なので、動画を載せてみました。