セレブ育ちのオジサマから卒業して実家に引越し

「今度、遊びに行っていい? 君の子どもにも会いたいし」

セレブ育ちのプロデューサーが恋人になって、週末はいつも都内ホテルのスウィートルーム。夢心地のデートを繰り返しているうちに、彼が私の住まいを見に来ることになった。父から借りている目黒区碑文谷のマンションで、畳敷きの薄暗い2DKに案内するのは恥ずかしい。それでも丁寧に掃除をして花を生け、息子と一緒にお出迎えをした。

 

保育園に通っている息子からすれば、彼はおじいちゃんに等しい年齢。優しい目をした人だったけれど、知らない男性と話すのは初めてかもしれない。ひどく緊張して固まり、「こんにちは」さえ返せなかった。

「美味しいものを食べに連れて行ってあげよう」

家には10分ほど居ただけで、彼のベンツに乗って青山へ。おしゃれな雰囲気で知られる老舗レストランに入ってコース料理をオーダーした。目の前にはナフキンとカトラリーがセットされ、まずはコンソメスープが運ばれてくる。スプーンを入れて掻きまわしている息子に、「スープはね、手前から向こうにすくって飲むんだよ」と彼が声をかけた。

 

 

次に出てきたパンは手でちぎって食べられたけれど、肉料理が難題。ナイフとフォークを駆使するなんて、息子はまだやったことがない。結局は私が細かく切ったものを恐る恐るフォークで突き刺して食べ、見たことのないフォアグラと野菜は残す。やっと最後のデザートが終わった時には、足をブラブラさせて退屈さをアピールした。

 

「これからはテーブルマナーを覚えなきゃいけないね」と、彼は次回も堅苦しいレストランに息子を連れて行く気でいたようだが、2度目はなかった。狭い2DKのマンションでも、我が家で食事してもらったほうが疲れないからだ。スーパーのダイエーで買ってきた食材で、平凡な家庭料理を作り、月に1度ぐらいは一家団欒の真似事をした。その他は息子を鎌倉の実家に預け、週末のスウィートルーム生活が規則正しく続いたのである。

 

 

観劇もコンサートもショッピングも、連れ立って出かける歳の差カップル。やがて彼が手掛ける仕事まで手伝うようになり、周りが私たちの間柄を噂するようにあった。それでも他人の目はお構いなしで、彼の愛情は過保護になっていく。都内に大雪が降れば車で駆けつけて、スタジオまでの往復をしてくれる。「今日はお泊りしたくない」と言えば、私が欲しがっていたブランドバッグを買ったので取りに来て欲しいと呼び出す。バッグだけをもらって部屋を後にするのは心が冷たいと思ったけれど、そのとき私には気になってたまらない片思いの人がいた。心に2人の男性を住まわせる器用さがなかったのである。

 

オジサマとの恋が終わったころ、息子は小学校に入学する年齢に。生活の拠点を目黒区碑文谷から鎌倉市七里ガ浜の実家へと移した。私の後に部屋を貸す人は決まっていたようで(父の妹夫婦)、家具や食器はそのまま置いていくように言われ、衣類と仕事道具だけをブルーバードに積んで少しずつ運び出していった。

 

実家では高校時代からの思い出が詰まった部屋で寝起き。ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん子だった息子は、二人の布団に挟まれて寝るようになった。海の香りがする慣れ親しんだ家に戻ったのだから、引越しブルーはない。

 

 

ただし音楽・放送関係の不規則な仕事だったので、原稿書きをしながら都内のスタジオとの往復は身体に堪える。どうしても夜遅くなる日だけ、父の会社がある目黒区下目黒に借りた1DKの部屋に泊まることになった。環状6号線と目黒通りがクロスする大鳥神社交差点で、車の騒音が半端ない。原稿書きをするためだけの部屋と割り切って、安い折りたたみベッドと机、1人用のダイニングテーブルを買い、殺風景な暮らしが始まった。時は昭和の終わり。この部屋で昭和から平成への代わり目を迎えることになる。