妻妾同居の大邸宅で暮らしたバブル真っ盛りの記念写真
ティーンエイジの思い出が詰まった七里ガ浜の家には祖父母を残し、父と継母、息子と私の4人は新築の家に引っ越してお正月を迎えた。場所は前の家から歩いて10分ほど、鎌倉高校の裏手にあたる。
時はバブルの絶頂期。会社はそっちのけで、毎日のように株で大儲けしていた父は、セキスイハウスが開発した分譲地を3区画買った。続きの2区画には本宅、道路を挟んだ向かいの1区画は会社の寮という名目でゲストハウスを建て、車4台が入る車庫を造った。
この物件は父が脳卒中で倒れた15年ほど前に売却して、今は他の方が住んでいるので外観の写真は載せられないが、新築当時の室内写真が何枚か残っている。
大理石の玄関を入り、2階に上がる階段の脇にある吹き抜け。
ここには写っていないが、写真の左側は天上まである巨大な1枚ガラス。鎌倉市の原生林が広がり、春にはタケノコがいっぱい獲れた。
下の画像は1階のリビングルーム。重厚な革のソファー、大理石のテーブル、グランドピアノ、そして壁にはデパートの外商から買い入れた絵画が飾ってある。居間というよりは応接間で、私がこのソファーに座るのは年に2~3度だったと思う。
リビングに続くダイニングルームとキッチン。家族が集まるのはこのテーブルで、食事のとき以外はみんな自室にこもるのが常だった。窓から見える原生林の緑は美しく、フェンスの上をよくリスが走っていた。
8LDKの家で、1階にはリビングルーム、ダイニングルーム、和室が2つ、バスルーム、トイレ。2階には各自の部屋3つと和室が1つ、バスルーム、トイレ。地下には銀座のクラブみたいな赤いじゅうたんを敷いたカラオケルームまであった。
下の画像は父母の寝室。ウォーキングクローゼット、屋根裏収納庫の他に、トイレとシャワールーム、冷蔵庫も完備していたので、うつのひどい継母は食事の支度以外はほとんどこの部屋にこもっていた。
写真と一緒に設計図も出てきた。
1階の設計図
やたら玄関と吹き抜けが大きな家で、来客用に作った左側の和室や浴室はほとんど使わなかった。父はお客が帰ったあと、履いていたスリッパや触った場所をアルコール消毒するほど潔癖症だったので、周りも敬遠していたようだ。お客用の布団は一度も出したことがなかったし、バスルームはADHDの継母によって物置と化していた。バスタブには10年前に貰ったお中元・お歳暮がごろごろ放り込まれていたと思う。
2階の設計図
階段を上ったところにあるのが私の部屋で、隣りの部屋が書斎だった。なんとこの書斎は父と机を2つ並べて、天井まである作りつけの本棚も半分ずつ使用。確定申告の時期になると、マンツーマンで帳簿の付け方を叩きこまれて、まるで社長と部下のようだった。私が落ち着けるのは皆が寝静まったころ。放送局から帰ってきて夜中に台本を書いていると、いきなりドアが開いて「まだ寝ないのか!」と叱られ、度肝を冷やしたものだ。
地下室
玄関から石の階段を下りて行くと、接客用のカラオケルーム。赤いじゅうたんに黒い皮のソファー、隣りの部屋にはワインセラーがあって、貰い物のあらゆるお酒が収まっていた。今でも忘れない恐ろしい思い出は、食事のときに一升瓶を取ってこいと言われ、それらしき瓶を持ち上げたら中にマムシが入っていたこと。世界で何よりもヘビが嫌いな私にとって、初めて見たマムシ酒は腰を抜かすほどの衝撃だった。
そしてこの家に出入りする人間がもう1人。向かいのゲストハウスに部屋を与えられたお手伝いさんのE美ちゃんである。彼女は父のいちばん新しい愛人で、料理も掃除もからきしダメだった。しかし「私が妻でございます」と君臨していた継母も、元はと言えば父の愛人だったのだから強いことは言えず、 妻妾(さいしょう)同居を受け入れるに至ったらしい。
E美ちゃんの仕事は、私の息子におやつを出すことと、通学のサポート。江ノ電と小田急を乗り継いで私立の小学校に通っていた息子を、小田急の始発駅・片瀬江ノ島まで送り迎えした。
私は週の半分、目黒の仕事部屋に泊まっていたのだが、夜遅く車を運転して帰ってくると、恐ろしい状況になっている。母屋とゲストハウスの窓が開き、継母とE美ちゃんが怒鳴り合っているのだ。それぞれの窓から投げたものが道に散乱し、いかにすさまじいバトルがあったかが想像できる。どちらも酒乱の気があったので、バトルのあとは豪快に爆睡して、翌朝は平気な顔でキッチンに立っていた。
この当時、庭で撮影した私の写真がある。撮ってくれたのは息子。継母は海外旅行に行き、父とE美ちゃんもどこかにしけ込んだので、私たち親子にのんびりとした時間が訪れたときだ。周りからは何の苦労も知らないお嬢様と言われていたけれど、外からは見えない家庭の事情は複雑さを極めた。「事実は小説より奇なり」なんて言葉は軽すぎるほどだ。
やがて息子が全寮制の中学に入った後、私は他の部屋を借りて暮らしたので、帰るのはたまに荷物を取りに戻る程度だった。返す返すも残念なのは、継母がこの家で撮った家族写真を全て捨ててしまったことだ。この記事に載せた何枚かの写真は、新築の当時に業者が撮ったものなので、人間が写っていない。
E美ちゃんも含め、家族全員で笑ったことなんてあったのかなと思いつつ、記憶は遠くなるばかり。だだっ広い芝生の庭は、この写真で私の足元に写っているごく一部だけが残った。
【追記】
父が半身不随になって介護施設に入居した後、継母の異常な言動がエスカレートしていった様子は、2009年に「文章で稼ぐ贅沢」の中に書いた。
2009.03.09「鬱病とアルコール依存症と・・」
2009.06.28「老人性うつ病患者からの被害」
2009.07.06「継母のうつ病と底なし沼」
2009.09.10「認知症と依存症の冷蔵庫」
2014.10.30「誰にも相談できないから書くブログ」
継母の精神状態はどんどん悪化し、2014年11月に孤独死した。死因は心筋梗塞と聞いたけれど、そうではない可能性が高い。記事を読み返してみると私も疲れ切っている。お酒と入眠剤のお世話になって、自暴自棄になっていた頃だ。
2014.11.07「心が振り出しに戻った訃報」
介護施設にいる父に、継母の訃報をどうやって伝えるか。法定代理人(後見人)をまじえて皆で頭を悩ませたが、結果は呆気ないものだった。
2014.11.16「憂さは忘れて食欲が増える」
現在の父は継母の名前もすっかり忘れ、私が訪ねて行ってもキョトンとしている。マンツーマンで世話をしてくれる女性スタッフを妻だと思っているらしく、彼女の献身的なケアに守られて幸せなのだろう。父はいつ嚥下性肺炎になって死んでもおかしくない状況だけれど、幸せであるなら一日一日をうんとワガママに生きて欲しいと思う。昔は愛人を8人も抱えていた女好きのままで、カッコよく世を去ってくれたらそれでいい。
【介護施設で暮らす父の様子】
2018.05.04「いちばん嬉しい言葉をもらったこと」
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