間抜けな寸借詐欺師のおいしい置き土産

幼稚園時代を過ごした六角橋の借家は十字路の角にあり、今思えば泥棒が入りやすそうな隙だらけの家だった。留守番をする祖母と私はいつも茶の間から往来を眺めていたけれど、向こうからもこちらが丸見え。働きづくめだった父母の帰りは夜遅いので、年寄りと子どもしか住んでいない不用心な家に見えたことだろう。愛媛の穏やかな地から引越してきた私たちには分からない都会の盲点だ。

 

ある晩、玄関の引き戸がガラガラと開く音がして「ごめんください」の声。スーツを着た、見知らぬ初老の男性が立っていた。手には菓子折りを下げ、にこやかに「〇〇くんはご在宅ですか?」と父の名前を言っている。昔ながらの友人で、たまたま横浜にくる用事があり訪ねてきたというのだ。父にそんな知り合いがいたかどうか、母方の祖母には全く心当たりがなく、それでも大切なお客様に違いないと信じて迎え入れた。

 

奥の六畳間に通すと、「〇〇くんが帰るまで待たせて貰っていいですか?」と聞く。我が家はちょうど夕食前で、祖母はささやかなおかずを小皿に取り分けて、熱燗と一緒に差し出した。

 


「いや、こんな時間に来て申し訳ありませんねぇ」と頭を下げながら、男性はチビリチビリとお猪口を傾ける。味の薄い野菜の煮物か焦げた卵焼きだったか、料理下手な祖母が作ったおかずはお世辞にも美味しそうに見えない。「娘が帰ってきたら、もう少しマシなものをお出しできるんですけどね」と謝って、何か出せるものはないかと台所と六畳間とを往復しているところに、母が仕事から帰ってきた。

 

「〇〇さんのご友人がいらしてるのよ」といきさつを聞いたところで、母もその男性に合うのは初めてだ。下戸だったので「奥さんも一杯どうですか?」という誘いはお断りして、自慢話の聞き役に徹した。どこかの役場に勤めているらしいのだが、1人で話に盛り上がるばかりで、こちらには何のことやらさっぱり分からない。徳利を3本も空けて上機嫌なった男性が「そろそろ帰りの電車がなくなるので・・」と腰を上げてくれたときには、女3人ホッと胸をなでおろした。

 

しかし事件はここから始まった。「今日は銀行に行く暇がなくて、手持ちの金が無くなってしまったんですが、幾らかお借りできませんか?」と、男性は金銭の無心をしてきたのである。人のいい祖母も母も何とかしてあげたいと思いつつ、我が家はとんでもない貧乏。お財布の中には小銭しか入っていない。時計を見上げ、「〇〇さんが帰ってきたらお貸しできると思うんですが・・・」と言ったものの、父の帰りは何時になるかも分からない。「チッ!」と小さな舌打ちが聞こえ、男性は「今夜は失礼します」と逃げるように玄関から出て行った。

 

その晩遅くに帰ってきた父に出来事を伝えると、「そんな知り合いはいない」の一言。もしかして寸借詐欺が家に上がり込んできたのでは?との結論に達した。いつも年寄りと子どもしかいないのを道から見ていて、我が家を標的にしたのだろう。表札には父のフルネームが書いてあるのだから、〇〇くんと名前を言えて当然だ。

置いて行った菓子折りを開けると、美味しそうな最中の詰め合わせ。「これは高く付いただろうに」と大笑いして、さっそく家族で美味しく頬張った。詐欺師にカモられるお札の1枚すらなかったその日は、給料日前だったのかもしれないが、貧しさも時には人を救うものである。