マリッジブルーと引越しブルーのWパンチだった新婚生活

女子大生のほとんどが在学中に婚約して、卒業したらすぐ結婚式。美智子様の出身校で知られるお嬢様大学は、私が通っていた当時、就職よりも結婚のプライオリティが高かった。卒業式には左手の薬指に宝石を輝かせ、家族と一緒に婚約者も同席するのが勝ち組だったのだ。

 

YEARBOOKという卒業アルバムに載る個人写真は、キャンパスのベストポイントを背景にカメラマンが時間をかけて撮影する。数が限られたアルバムはお嫁さん選びに、陰では数万円のプレミアが付いているという噂だったが、卒業時には結婚相手が決まっているのだから、買っても間に合わなかっただろう。

 

とある大地主の三男坊と結納を済ませていた私は、料理学校に通ったり、ブライダルエステに行ったりしながら、5月の結婚式への準備を進めていた。和服は桐の箪笥いっぱいに入るほどの枚数を仕立て上げ、ホテルオークラでの挙式に備えてウエディングドレスやイブニングドレス、新婚旅行用の衣類まで買い歩く毎日は夢のようだった。

 

 

藤沢市片瀬の借家住まいだった頃とは段違いに、実家の経済状態は上向いて、嫁入り支度のほとんどは渋谷西武百貨店の外商を通じて行った。人間国宝が染めたという百万円を超える反物で振袖を作ったくらいである。その頃の父は自動車の販売修理会社を部下に任せ、東京都目黒区に警備会社を設立。都内で高層ビルの建設ラッシュが始まり、工事現場を守るガードマンは引く手あまたの存在だったので、警備業は飛ぶ鳥を落とす勢いに伸びた業種となったのである。

 

大学を出たばかりの新婚夫婦に自己主張は許されず、披露宴のゲストは両家の仕事関係先ばかり。まるで親が主役みたいで、挙式が近づくにつれて私の中では不満がつのっていった。マリッジブルーと引越しブルーがダブルパンチで襲ってきたのだ。

 

マリッジブルーの原因は、彼と一緒にいても楽しくないこと。デートは彼の実家でテレビを見て、夕ご飯をご馳走になり、車で家まで送ってもらうだけ。さもなければ彼の友人たちとアンナミラーズに集まって趣味の話で盛り上がり、蚊帳の外の私は黙って聞いているだけ。しかも彼は母親への依存が過ぎる三男坊で、結婚しても親が関与する生活が続くのだと思うと、心に漬物石を乗せたような気分だった。

 

それに加えて引越しブルーの原因は、私の両親の関与。離婚して家を出て行った母親のあとに入ってきたのは、父の一番目の愛人で、嫁入り支度のほとんどを取り仕切ろうとした。新居については父が、大田区南馬込に建つ3LDKのマンションの購入を勝手に決めてきた。しかも完成するのは結婚式の半年後なので、それまでどこに住むかが問題となったのである。

 

 

彼の実家で暮らすのだけは絶対にイヤ。案として浮上したのは、会社のある目黒で父が使っている2DKのマンションを借りることだった。しかし父はこの案に対してはガンとして首を縦に振らない(おそらく他の愛人を連れ込む部屋だったのだろう)。新居探しは挙式のギリギリまで難航し、全てが親任せの彼は自分から動こうともしない。かんしゃくを起こした私は、泣いて騒いで鎌倉の自分の部屋に立てこもり、ガス栓をひねって自殺未遂の狂言をするに至ったのである。

 

結局は父が折れて、南馬込のマンションが完成するまでの半年間は、目黒のマンションに暮らしていいとの許可をくれた。ただし平日は新婚夫婦と父との3人暮らし。土日は例によって彼の実家でテレビを見るという、どこまでも親が付いてくる生活が待っていたのだ。

 

 

何時間にも及んだホテルオークラでの披露宴、二次会が終わると、新郎は花嫁を放って友人たちと六本木の街に繰り出した。父は親戚たちが集まった機会を利用して、一番目の愛人を入籍したことのお披露目会をその晩、娘に隠して行っていた。ひとりポツンとホテルの部屋で彼の帰りを待ちながら、枕を濡らすことしかできなかった初夏の晩は、マリッジブルーの極致だったと思う。

 

今思うに、いちばんダメだったのは主体性のない私自身。面倒なことは誰かがやってくれる、お金は親が払ってくれると甘えていた。もしも大学4年で婚約せずに就職していたら、世間の波に揉まれて全く違う人生を歩んでいたはず。誰かのせいにしないことが、ブルーな気分にならない最善な方法だと知ったのは、頼れる人が周りにいなくなってからだ。長く続いたマリッジブルーの後に訪れた離婚は、波乱万丈なアクシデントが多々起きる人生の序章であり、引越しブルーはそれからも回数を重ねていくこととなる。