引越しブルーの原点 生まれた場所へのひとり旅

8月のある朝、私は愛媛県の松山駅を始発に新居浜駅へ向かう中距離バスに乗っていた。路面電車が走る市街地の一般道から松山自動車道に入ったころにはすっかり汗もひいて、エアコンの効いた車内では数組の客が聞き覚えのある方言で談笑している。窓枠に頬杖をついて夏空を見上げると、美術館の水彩画のように爽やかな青と真っ白な雲が、涼しげに伴走してくれることで目が和んだ。

 

四国に来たのは、小学生のとき叔父に連れられて西条市に住んでいた祖母を訪ねて以来である。その当時は瀬戸大橋がなかったので、寝台特急「瀬戸」で東京から宇野へ行き、宇高連絡船で瀬戸内海を渡って高松へ着く。すると乗船客のほとんどが列車の席を確保するために、手に荷物を下げたまま予讃線のホームまで競って走るのだ。弾んだ息とともに吸い込んだディーゼル車特有の臭気は嫌いではなく、その数年前に両親と一緒に夜汽車で上京した長旅を思い起こさせて、子どもながらに手で撫ぜる堅い椅子の感触を懐かしいと思った。

 

それから20年少々が過ぎ、構成作家をしていた私は、加山雄三さんのコンサート・スタッフとして再度四国の土を踏んだ。今度は電車ではなく羽田から飛行機で、生まれて初めての松山空港に降り立った。着いた当日は松山市民ホールでの本番後にミュージシャンたちと深夜まで居酒屋を飲み歩き、二日酔いの翌朝はホテルで味噌汁を飲んで遅めのチェックアウト。前日にチケットを購入しておいた伊予鉄の中距離バスに乗りこんだ次第である。運転手の車内アナウンスに聞き耳を立て、降車するのは遠い記憶にある故郷の地名から探した停留所だ。親にも相談せずに一人で決めた、生まれた場所への思いつきのトリップ。

 

 

期待を膨らませ、2時間弱の小さな旅で到着した「小松総合支所」は、田舎にありがちな埃っぽく殺風景な道路の端にポツンとあるバス停だった。ここからどこに行けばいいのだろうか。幼児のころ、大家族で住んでいた一軒家は庭木に囲まれた真っ白な建物だったけれど、まさか現存しているとは思えず、「小松」という以外に番地さえ分からない。地図も調べずに行き当たりばったりで来た自分に驚いて、確か近くに大きな川があったはずだと周辺を探索することにした。道を尋ねようにも人っ子ひとり姿が見えないのは、お昼どきでみんな家にこもっているのか、それとも私が幻覚の中にいるのだろうか。

 

バス停の脇から路地に入って程なく見つけたのは、コンクリートの蓋で覆われた細い排水路。サラサラと水の流れる音がすることから、昔は小川だったのかもしれない。しゃがみこんで祖母と一緒にメダカをすくった思い出がふとよみがえり、ここから左に歩いて行けば生家があるはずだと妙な確信が湧く。そして探すまでもなく数十歩ほど歩いたところに「それ」は存在していたのである。

 

真上から照りつける太陽のもと、シャーシャーと喧しいクマゼミの鳴き声が絶え間なく響く。車が1台通ってギリギリの狭い道には両側に民家が立ち並び、歯が抜けたようにポツンと四角い空き地があった。いや厳密にいえば空き地ではなく、石の塀と門柱だけがやけにしっかり残った土地には雑草が茂り、真ん中だけが耕されて、ナスやトウモロコシなど夏野菜を植えた畑になっている。

 

門柱には表札を剥がした後が白く残っている。その脇にヤモリが張り付いてピタリと動かない。もしかしてこの家を建てた亡き祖父の魂が乗り移って、私が来るのを待っていたのだろうか。祖父が立ち上げたビール会社の事業に失敗したことで、私たち大家族は散り散りになって夜逃げし、最初にこの家を去ったのは涙をいっぱいに溜めた祖母だった。月のない夜、三輪自動車に風呂包みを抱えて乗り込み、何度も私の名を呼んでいたのを覚えている。

 

 

祖母は隣り駅の西条に家を借りて和服を仕立てる仕事をしながら、学校に通っていた叔父2人と暮らすことになった。祖父は不動産屋を始めると言って、大阪のアパートを借りて一人暮らし。一番最後に父母と私は、鈍行の夜行列車に乗って東京へと向かった。駅を過ぎると町の灯りがだんだん少なくなり、窓の外には闇だけが広がる。不安で泣きたくなる私の気を紛らわそうと、父は並走する貨物列車を指差した。

「ほら、この電車と競争してるよ。どっちが早いかな。負けないように応援しようね」

走れ走れ、もっと早く、もっと遠くへ突っ走れ! 自分たちの乗った電車を応援するのは、悔しさが心に溢れていたからだろう。若くして銀行の支店長だったエリートの父は、祖父の事業に融資をしたことで職を解かれ、世間に嘲笑われて故郷を去ったのである。新橋のホテルのシングルルームにこっそりと3人で宿泊し、母と私は息をひそめて部屋にこもり、仕事を探し歩く父の帰りを待つ日が続いた。1週間ほどで日産の営業マンの職を得た父は、横浜の六角橋に家を借りて、私は4歳で初めての引越しを経験することとなる。

 

空き地になった生家の門柱を見ながら、うろ覚えの幼少期が少しだけよみがえり、そうだ!と後ろを振り向いた。昔は路地の反対側は一面の菜の花畑で、真っ白な日傘をさした母が泳ぐように歩いて行ったのを覚えている。彼女はどこに向かっていたのか、たぶん公民館だったのだろうが、そのまま菜の花の海に呑まれて消えてしまうようで、ママ!と何度も叫んだ。

あれは予知夢だったのかな? 母は私が大学生のときに男性を作り、家出したまま戻ってこなかった。

 

真夏に菜の花畑があるはずもなく、我に返れば家が立ち並んだ路地に、再びクマゼミのシャワーと蒸し暑い空気。誰ともすれ違わないまま予讃線の伊予小松駅まで歩き、駅前の小さな食料品店に寄ってみた。まだこの店があったんだと、祖母にお菓子を買ってもらった思い出がよみがえる。お茶のペットボトルを手に取り、出てきたお婆さんに「昔、〇〇という名字の一家が住んでいたのをご存知でしょうか」と聞いてみたが、「さあ」と首を傾げて会話はおしまい。お釣をもらい、駅舎のベンチでなかなか来ない各駅停車を待った。

隣りのベンチには麦わら帽子をかぶった女の子が、お母さんと並んで座っている。きっと彼女たちは夜になったら家族と一緒の団欒が待っているんだろう。生まれた場所はあっても、大人になって帰る場所はなくなった私は、これから一人で東京の雑踏に戻る。