独りで部屋を片付けた22歳の引越しブルー

15回に及んだ私の引越しは地名を挙げると、小松(愛媛県)、徳島(愛媛県)、六角橋(神奈川県)、片瀬(神奈川県)、七里ヶ浜(神奈川県)、田園調布(東京都)、南馬込(東京都)、自由が丘(東京都)、碑文谷(東京都)、津(神奈川県)、目黒(東京都)、恵比寿(東京都)、逗子(神奈川県)。ただしこの中でも出て行ったり戻ったりを繰り返した場所があるため、総じた引越しの回数は30回ぐらいかもしれない。

 

江ノ島を見おろす鎌倉市七里ヶ浜の家は、15歳から30歳までを過ごした。でもずっと居たわけでなく、大学進学、結婚、離婚で住まいを転々としながら、拠点は七里ヶ浜に置いていたのである。実家にある自分の部屋は、当面必要のない衣類や書物を保管する物置として必要だったからだ。

クローゼットの棚には思い出のある制服や勉強道具、おしゃれグッズ、やりかけの編み物などが段ボール箱に入れて積み重ねてある。現像したまま放置していた写真は、祖母がていねいにアルバムに貼り付けてくれた。色あせてセピア色になった写真も多々あるけれど、おかげでこうして引越しの記録を書くときには大いに役立っている。

 

 

引越しは思い切った断捨離ができる最高の機会でありながら、最高に面倒なイベント。片付けきれなくて、親の家などに置き場所がある人も少ならからずいると思う。私の父は七里ガ浜の家は祖父母に託し、人生の集大成みたいな邸宅を鎌倉高校の裏手(鎌倉市津)に建てたので、物の置き場所がますます増えてしまった。実家まで行くのが面倒だと、都内にトランクルームまで借りていた時もあるほどだ。ヤドカリは脱皮して身体が大きくなるたびに、住居の貝殻を引っ越すのだけれど、私の場合は脱皮の残りカスを置いた住居を転々としていたことになる。

 

 

こうして複数の住まいを持つのが始まったのは、高校3年の秋からだった。湘南白百合学園から聖心女子大学への推薦入学が夏休み前に決まり、受験勉強の必要がなくなった私は、趣味を拡大するために都内に行くことが増えたのだ。

 

何を始めたかというと作曲・編曲の勉強である。きっかけは中島みゆきや長渕剛などを輩出した「ヤマハポピュラーソングコンテスト」。シンガーソングライターに憧れた私は応募方法を無視し、父に買ってもらったフォークギターで初めて作った曲をカセットテープに吹き込んで、いきなりヤマハ音楽振興会に送りつける無謀な試みに出た。驚くことにヤマハのディレクターから電話がかかってきて、「詞が良かったので、ポピュラーソングコンテスト用の歌詞集に載せたい。でも曲は頑張って勉強する必要がある」と、シンガーソングライターへの道をプッシュしてくれることになったのである。

(詳しいいきさつは別ブログ「文章で稼ぐ贅沢」の「40歳を過ぎてもアーティストオーディションを受けられる」に載せてあります。)

 

それからは、アレンジャーの先生に付いて新宿のヤマハで音楽の勉強を始め、帰りが遅くなったときは田園調布の別宅に泊まることを許してもらった。とは言っても高級住宅が並ぶお屋敷街ではなく、埃っぽい環状8号線近くの大田区田園調布。鎌倉から通うのに疲れた父母が、平日の夜に泊まるのに購入した1DKのマンションである。

 

 

そして春に進学した大学は渋谷区広尾にあったので、母との同居を条件に、平日は田園調布から通うことを許してもらい、大荷物を運ぶために運転免許を取った。金曜の夜はブルーバードのトランクに衣類や勉強道具を詰め込んで、第三京浜、横浜新道を走って七里ガ浜の家に戻る。そして日曜の夜もしくは月曜の朝、一週間分の荷物とともに母を乗せて都内へ移動。冒頭に書いたように何十回も居場所を替えながら、私の人生は車のトランクを使ったプチ引越しの繰り返しだったと思う。

 

今思えば、そこまでして往復した学生時代の成果は何もない。大学1年で初めてのボーイフレンドができたことで、音楽や勉強そっちのけで恋に走った。しかも将来を約束した彼氏を振って、大学4年で知り合ったスキーのコーチと婚約。卒業後の5月末に結婚式をすることが決まり、田園調布のマンションは父の部下に貸すことになった。4年間使った部屋の片づけを命じられ、キッチンやバスルームがピカピカになるまで清掃したのは、生まれて初めての経験である。

 

そのころ母は男を作って家出して離婚。手伝ってくれる人がいないので、引越しの準備を独りでしながら、どうしようもなく切ない気分になった。バスルームの水垢は何度こすっても落ちない。幹線道路側の窓は何度拭いても泥埃が取れない。涙がポツリポツリ。5月には幸せな結婚が待っているはずなのに、母と過ごした部屋を一人で掃除するのは悲しくてたまらなかった。

引越しで片付けるのは荷物だけではないのだと知ったのは、この時が最初。ダンボールに入らない思い出を入れるのは、何度引越しをしようと自分の心しかないのである。これが15回、いやもっと沢山経験した引越しブルーの始まりだったと思う。